夕方からは神戸に帰ってクライアントが構想を練っている新規のビジネスモデルについてのご相談を受けました。
店舗の工事をさせて頂いているモノとして、工事の後の繁盛に少しでも寄与したいというのが私たちの考え方の基本であり、このように企画が具体的になる前からご相談させて頂く事は、そういった私たちの姿勢をご理解頂いているという事でもあり、本当に嬉しい限りです。
H様、本日はお声がけ頂きましてありがとうございました。
ほんの少しでもご参考になれば幸いです、また進捗を聞かせて下さいね。
と、そんなこんなで今日も朝から晩まで走り廻りました。
お題目は、そんなドタバタの一日を過ごしながら、考えた事、
超地域密着の地場工務店として営業を続けて来た割には広範囲で動き回る自分を省みて、ご縁を繋げて来たからと言っても型破りと言って良いようなこの暮らしを続けているのが面白いもんだなーと思った時、ふと思い出したのが、小学校の卒業のときの寄せ書きに、(名前も忘れてしまいましたが)髭もじゃの比較的若い先生が書いてくれてた卒業に寄せて、という文章の題名です。
『ぶっ潰せ、』という破壊的な言葉を先生が書いているのを見て驚いたと共に、壊す事は全て悪ではなく、認められる事もあるのだと、子供心に目の前が開けたような新鮮な印象を持ちました。
その(たぶん伊藤)先生が書いてられた本文ははっきりと覚えていませんが、たしか大人や、社会から押し付けられた枠組みの中でなんの疑問も持たずにいい子ちゃんでいられたところでなんも素晴らしい事は無く、いつの時代も新しい事を生み出したり、世の中に一石を投じたりするのはそんな『あてがいブチ』を壊してこそ出来るのだ、一度しかない人生を自分が思うように生きなければ意味が無い。
というような事を独特のダイナミックに崩した字で書いてあった覚えがあります。
その当時はとりわけその文章に心を動かされた訳でも無かったのですが、その時受けた新鮮な印象は私の心の奥底に張り付いてしまったようです。
お陰でそのあとの学生生活ではずいぶん『あてがいブチ』を壊しました。(苦笑)
現在、すみれの社内の取り組みの一つとして、定義を見直す、という事を断続的にやっています。
『顧客とは誰か?』とか、『朝礼とは?』とか、先日の工務スタッフとの飲み会では『大工とは?』について熱く語ったりもしてみました。
社内の共通の価値観の見直しとでも言うのでしょうか、同じ単語を発していても、同じ事をやろうとしていても、何の為にそれを行うのか、という認識が違う事は毎日顔を付き合わしている相手でも往々にして有るものでして、その曖昧なところをはっきりさせて行くのも大事ではないかと思ったのがきっかけです。
そもそも定義とは、という根本的な議論もありますが、とりあえずのところそれはさておき、ここでは社内でのコミニケーションを円滑にするために、~とは~である、と、物事についての認識をはっきりさせる事を言っています。
そして社内基準として定めたそれは、しばしば世の中の定義とが違う事があります。
なにしろ、私の価値観の押しつけが大半ですから、、(苦笑)
私が考えたのは、価値観の押しつけの善し悪しは別として、世の中で定義とされているものを、社内独自の価値観に照らし合わして再度定義をやり直すというのは、結局、小学校のときの(多分、伊藤先生)が贈る言葉として私達に下さった、『あてがいブチをぶっ潰す』ことに繋がっているのではないか?
という事でした。
子供の頃に張り付けたマインドセットが未だに心の奥底に残っていて、常に『あてがいブチ』を破壊しなければならない、という観念になってしまっているような気もします。
(たぶん伊藤)先生はきっと革命論者だったのでしょう、(笑)
破壊思考という事自体についての是非はありますが、私の場合、せっかく身につけた思考なので、善の循環の為の前向きな破壊に意識をおいてこれからも良い意味でのぶっ潰すことを続けて行きたいと思います。
破壊無くして創造無し、の精神ですね。
そして(我ながら)子供の頃に受けた教育とか、刷り込みに対する免疫力の弱さというか、マインドセットに及ぼす影響の大きさに改めて気付いたことで、自分が大人になって、子供と接する時の何気ない一言が如何に重い責任を背負っているか、ということに対する認識を新たにしました。
何気ない一言が、何年も先までのマインドブロックを作ってしまったりするのだと、、
こっちはこっちで十分に気をつけたいと思います。。(苦笑)
『設計、施工の内製化、作り手の地位向上』