自殺志願亀とぽっちゃりノラ子猫、2つの問題。

6月16日 雲のち一時雨

今日も朝から着工予定の現場へと打ち合せに走りました。

明後日からの台湾へ出張を控えて、済ましておかなければならない事がてんこ盛り。

ドタバタしています。

梅雨空
梅雨空

 

自殺志願の亀

現場での打ち合せから戻る途中、池沿いの道を車で走っていると、車道の真ん中に大きな石がごろり、と転がっておりました。

おいおい、といいながら除けて走り過ぎたのですが、それはよく見ると石ではなく亀でした。

次のアポイントの時間まで、もうギリギリで、急いではいたのですが、10mくらい行き過ぎたあと、「あーもう、」と車を止めてバック、車道の真ん中で丸まっている亀を池に戻してやりました。

命の恩人だと、喜んでくれてたらいいのですが。(笑)

 

その後、打ち合せや現場確認をサクサクと済ませ、(久しぶりに、)昼下がりに事務所に帰社、溜まっているデスクワークや、台湾出張の為の準備を現地の会計士さんとやり取りしたり、、

どうも、台湾の税務、会計、登記関係の法律というか、慣習になじめず、苦労しています。。。(出張、伸ばそうかしら、、)

自殺志願の亀
自殺志願の亀

腹ぺこじゃないノラ子猫

事務所でデスクに向き合っていると、すぐドアのそとで、ニャーニャーと猫の鳴き声が聞こえてきました。

3階でおとなしくしているはずの(愛猫)にゃろがまた一人で散歩に出て来たのかと思って、迎えに行ったら、にゃろではなく、なんと彼女の姪っ子でした。

「どうやら、にゃろのお母さんは事務所の近所に住む野良猫で、にゃろの兄弟も近くに住んでいるらしい」と、風の噂で聞いていたのですが、それがまた子供を作った、という事の様です。

 

真っ黒に薄汚れて、かわいそうに、と思って抱き上げてみると、意外におなかはたっぷりと肥えていて、どうやらひもじい思いはしていない様子。

それにしても、何となく不憫かな、と思い、家に連れて帰ろうと思いかけましたが、すみれママ☆情報によると、何でも近くにミルクをくれる人がいるらしく、食事には困っていないとのこと。(確かに良く肥えていた、苦笑)

じゃあ、なんとかたくましく生きて行け、とそのまま倉庫の前に離しました。

にゃろの姪っ子
にゃろの姪っ子

自由と束縛の親密な関係

彼、(彼女?)にとって人に飼われるのと、自由気ままに野生に生きるのとどっちが幸せなんだろうか、なんて考えながら、この問いって、自分の身にも同じ事があてはまるよな、なんて考えてしまいました。

人の世もまた、安定は不安定であり、自由は責任に縛られる事であり、何かに属する事は選択の自由の機会を持つ事になる。会社員は自由を求めて起業家になりたいというし、多くの起業家は安定を求めてガムシャラに働き詰めたりして、自分が自由に使える時間を失っていまいがち。(私の事ですが、、)

どちらが良いとか悪いとかではなく、やっぱり世の中は表裏一体ってことなのかも知れませんが、この子猫と、我が家で暮らすにゃろとの違いは一体何で、本当はどっちが幸せなのか?サッパリわからなくなりました。

自分自身のことを含めて。(苦笑)

 

自己欺瞞への向かい方

もう一つ問題なのは、亀や子猫と出会う度に、自分の中に芽生える厄介な感情です。

亀が勝手に池から上がって来て、飛び込み自殺をしたからって、私にはなんの関係もないし、どーでも良い事であります。

子猫も、もう生後2ヶ月くらいは経っていそうだし、ちゃんと食事にありつけているようなので、自由気侭な人生(猫生か、)を送ったらいいとおもいます。

何故、私がなんの関係もない彼らの事を気に病んで、お客様との約束が遅れそうなのに車を止めたり、にゃろだけでも十分手を焼いているのに真っ黒に汚れた猫の面倒を見なくていいのか、と悩んだりしなくてはならないのか。

心の中の葛藤、そっちの方が問題です。

気にしなければいいのに、その方がずっと楽やのに、とは思いますが、実はわざわざ自分から厄介ごとを拾いに行ってる気がします。(苦笑)

 

『影響の輪』と『選択と集中』

それは、天命を知る50歳を目前に控えて、やっと人生って魂を磨くために有るのではないかと、ナチュラルに思えるようになって来たからではないか、と。

亀井勝一郎氏が残された、私が大好きな、というか常に喉の奥に突き刺さっている小骨のように引っ掛かっている『割り切りは魂を弱くする』と言う言葉は自分の実力では出来もしない、所謂『影響の輪の外』にあるモノについても関心を持つ事を暗に示唆していると思うから。

仕事柄、マーケティング論をいろんな角度から見直したり、定義の見直しをよくするのですが、その中の一つに、『マーケティングとは、影響の輪を広げるシクミである。』というものがあります。(私のオリジナルです。笑)

影響の輪を広げる為に、今出来る事に集中して精度を高めるべしで、その結果、自然な流れで徐々にその輪が広がって行く、と、主宰している塾でもよく話すのですが、似て非なる言葉に、一時よくもてはやされた『選択と集中』という言葉が有ります。

選択と集中という言葉の持つニュアンスは、影響の輪の論理と違い、影響の輪の外にある関心事に心を残しながら、今出来る事に集中するべし、そして輪を広げて関心事を影響出来るように取り込んで行く。という考えではなく、大きな輪の中で必要な部分だけに特化してその他をを切り捨てるべき、と言う風に感じてなりません。(私見です。)

割り切りの推奨といいましょうか。。

 

天命とは魂の使い方

とにかく、『魂を磨く』という人生の目的がその方法論(割り切らない生き方)と共にぼんやりと見える年齢になって来たことで、普段の暮らしの中にある些細な選択に対しても、割り切らないことが自分の中にすこしずつ定着し始めたように思います。面倒この上ないですが、、(苦笑)

至って厄介な問題ではありますが、考え方によってはその厄介事が増えれば増える程、己の魂は成長する機会をもらえるという事ですし、ここはやっぱり前向きに捉えて行くしか無いと改めて。(笑)

 

結局、人生修行やってことやで、大ちゃん。

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