JUGEMテーマ:日記・一般
9月3日月曜日。
月初が週末だったということで例年よりもゆっくりした夏休みでしたが、それも昨日まで。
新学期が始まり、夏休みの余韻を引きずりながらお嬢も学校に行きました。
すっかり日常になってしまっていた(学校に行かないという)非日常が、やっぱり日常ではなかったと気付く日ですが、我々社会人の立場で考えると、勉強だけしていたらいい学生時代の毎日というのは長い人生から見るとやはり非日常であり、後で振り返ってみると思いの外短い学生生活を精一杯楽しんでもらいたいと思います。
ま、人間は環境の生き物、今与えられた環境に直ぐに順応してしまいますので、中学生の子供にそんな事を理解しろと言ってもどだい無理なのかも知れませんが、、(苦笑)
アタリマエの毎日は実は与えられた貴重な毎日だと言う事に早く気付く事が出来れば毎日にもっと一生懸命に向き合えるようになると思うのですが、、
それも含めて全て彼女の人生、あまり細かな事を言わず、(できるだけ)温かな目で見守っていきたいと思います。
ま、自分自身、子供の頃にそんな事を全く考える事なんて無かったしね、、(笑)
中学生の登校を見送った散歩の後はいつもの神社にお参り、本格的な繁忙期に向けて事業の安全をお願いして来ました。
昼からは町中に出掛けてクライアントがテナントとして入っているビルの空調システムの調査に立ち会いに向かいました。それにしても最近この手のトラブルがとても多い気がします。
機器の動作を確認しに上がったビルの屋上から見る六甲山系は心無しか涼しそうに見えました。
夕方は少し時間を見つけて昨日のブログで紹介した本日オープンのラーメン店に陣中見舞い。
スムースなランディングをされているのを確かめつつ、今日も魅惑のラーメンを頂きました、
I様、素晴らしい商品をお持ちなので間違いないとは思いますが、これからのご商売繁盛を心から祈念致します。
たくさんの福が来たりますように、
さて、お題目は久しぶりのテーマ、FB上の勉強会のメンバーでもあるクライアント様に話題を振られていたので少し考えてみました。
マキアヴェッリズムとは、君主論で有名な
ニッコロ・マキャヴェッリがその著書の中で著した考え方の事でありまして、今の日本を含む先進国では殆ど関係がなくなった君主国家の縛りの中で、君主たるものどうあるべきかを説いたものです。
前提に民主主義を排除してあるので、現在ではあまり意味を成さない様にも思いますが、一般的なリーダー論として今も話題に上る事があるのだと思います。
代表的な部分を乱暴にWikipediaから拾わせてもらうと、
「覚えておきたいのは、民衆と言うものは、頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである」
から始まって、
君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならない、憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることが重視されるべきである。
目的達成至上主義論を繰り返します。
極端とも取れるその考え方は君主国家に限ってという大前提が書かせたものだと思いますが、その部分だけを抽出する事によって、マキアヴィッズムという思想がまとめられているように私は受け取っています。
もしも信義を守ることで損害が出るならば、信義は一切守る必要はない。重要なことは立派な気質を君主が備えている事実ではなく、立派な気質を備えているという評価をもたせることである。
それにしても酷いですが、世の中は奇麗ごとじゃない、結果が全てだ、という考え方教典的な存在とも言えると思います。
たしかにきれいごとを並べて何の結果も出せない無力なリーダーよりはずっとまし、という声もあろうかと思いますが、こんな中世の論文を引っ張り出されても現代の社会ではなんの意味も無いと私は思っています。
しかし、この考え方が手段の目的化の最たるものであり、残念ながら現在でも実際のビジネスシーンでは往々にして見られる事でもあるのです。
分かりやすい例えといえば、悪徳リフォームの手口などがいい例だと思います。
企業が収益を上げて存続することは雇用を支え、納税の義務を果たし、経済を活発にします。
これは絶対に必要な事であり、これを出来ない経営者はリーダーとして失格だと言われてもしょうがないのが今の資本主義社会の基本です。
ですが、その為に老人をだまし、必要の無い工事を無理やりして売り上げを上げる事など有って良いはずが無いのです。
そして、もっと重要なのは企業が収益を上げる事自体を目的とした時点で手段の目的化が始まっていると言うことなのです。
『目的』とは何の為に?という問いに対する答えであるべきで、お金儲けの為にお金儲けをすると言う答えはあるべきではないと思うのです。
この誰しもがふとした時に陥りがちな厄介な問題に対して対処するのに私が考えたのは『在り方』という概念です。
単位の大小、個人や企業に拘らずこの地球上に存在している以上、『在り方という概念』はは絶対にあるはずで、
その部分をしっかりと理解していれば、どうあるべきか、という土台の上に立って、
何をすべきか(目的)や、どうするべきか(手段)を組み立ててていく事になると思うのです。
そこでは(それぞれの立場でどうあるべきかという)同じ土台の上に積み重なる目的と手段は絶対に相反する関係性にはならないと思うのです。
マキアヴェッリが没してもうすぐ500年が経とうとしています。
その間、無限にあると思われていた地球の資源が有限であると言う事に気付くまでに人類は発展し、膨張し続けて来ました。
有限である地球の資源と共存しなければ人類は生き残る事は出来ず、それは人間が地球の中の個の一つだという認識が無ければ成り立たないと言う事でもあります。
そう考えると、あり方、という概念は、マキアヴェッリの時代には必要がなかったのかも知れません。
今の現代社会では、
どうやって生きるか?
何の為に生きるか?
という人としての永遠の命題を鑑みる前に、
どうあるべきか?
という根源的な問いに対しての答えを持っておくべきだと思うのです。
MO様、私の見解はこんなところです、如何でしょうか?(笑)
『建築業を通して地域社会に貢献する』
を理念にモノづくりの本質を守り、
『設計、施工の内製化、作り手の地位向上』
をミッションとして日々社業に励んでいます。
を神戸の西の果てで誠心誠意の自社設計・施工で行っています。
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